東京大学中東地域研究センター UTCMES スルタン・カブース・グローバル中東研究寄付講座

UTCMES定例研究会の実施報告

第1回「帝国の時代の想像力-オスマンとロシア」

報告者:鶴見太郎(東京大学・明治学院大学非常勤講師)
      藤波伸嘉(東京大学)
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 2012年5月26日、駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム2にて、ロシア史研究会5月例会との共催の形で、「帝国の時代の想像力-オスマンとロシア」と題して第1回定例研究会が行なわれました。以下に研究会の報告を掲載します。


 昨年暮れから今年初めにかけて、ほぼ同時期の隣接する帝国を扱った『オスマン帝国と立憲政』と『ロシア・シオニズムの想像力』が上梓された。東京大学中東地域研究センター第1回定例研究会として開催された今回の相互合評会は、それぞれの著者がそれぞれの著書を批評し合い、現代人の想像力から零れ落ちる歴史の重要な一幕をいかにして見出し、翻ってその後の想像力といかに比較していくかを議論したものである。催しとしてのユニークさにくわえ、ロシア史研究会の例会とも共催とし、普段必ずしも顔を合わせることのない研究者が一堂に会した点でも意義深いものとなった。当日は30名弱の参加者に恵まれ、盛況であった。

 当日の手順としては、まずそれぞれの著者が互いに書評しあい、リプライを挟んでからフロアを交えて議論していくというものである。以下では、両書への書評と諸々の論点をめぐり繰り広げられた議論をいくつか絞ってまとめてみたい。

 まず鶴見太郎が『オスマン帝国と立憲政』の書評を行った。1908年からバルカン戦争という混乱期までの短い期間は、これまで、それ以前の時期の延長として理解されてきた。それに対して、立憲政――単なる法制度としてではなく、人々が議論をする前提としても――が確かに根づいていたことを、特にトルコ系とギリシア系のオスマン人の諸議論を詳細に追うなかで明らかにした点に本書最大の功績がある。オスマン史や歴史学全般に対する意義ないし含意は、以下に疑問点と当日の議論を絡めて示すとおりである。

 疑問点の第1は、ギリシア人の国家・民族関係観を、民族第一とするものとして著者が読み取っていることに関して、現在でいうところのコミュニタリアン的な観点と解することはできないのかという点である。この点は、著者のいう立憲政の共和主義的解釈と共同体的解釈の違いに関連するものであるため慎重な対応が必要である。著者によると、その可能性は精査する必要があるものの、評者が取り上げた発言に関しては、他の議員の類似の発言から類推するに、まず民族ありきの意味合いが強いという。このあたりの解釈・評価は学問としても難問に属するものであろうが、いずれにしても、こうした認識のずれによって、トルコ系のほうにも被害者意識のようなものが生じえた構造を明かしたことは本書の重要な貢献の一つである。

 第2に、終章では、立憲政の脆弱性を帝国崩壊の主因に挙げる議論に対して、西欧列強の介入が崩壊の主因として論じられているが、この点についての論証は本論ではなされていない。著者もその点は認めるところである。しかし評者は、この点は、別の形で掘り下げられるべきであり、本書にその材料は十二分に備わっていると論じた。つまり、本書はむしろその濃厚な論証によって、立憲政がある程度機能したことが、かえって帝国内のバランスに変化を与え、それが帝国崩壊の少なくとも遠因になったことを示唆しているのではないかということである。西洋史一般において、立憲政は、体制の問題を解決に導く進歩であるとの想定があるように思われる。ここから、帝国が崩壊するのなら立憲政の不徹底にあったとする偏見が生じうる。しかし本書はこうした素朴な想定を、重厚な証拠を持って覆す破壊力を有している。1908年以降の時期に様々な側面について多様な議論がなされていた。そしてそこで浮かび上がっているのが、そのことによって帝国の構造が透明化し、従来ベールに包まれていた総主教座とオスマン中央との関係性も明るみになり、ギリシア系の共同体内部で、共同体の主導権に関係しうるこの点をめぐって対立が持ち上がった面があった。つまり、立憲政が機能しなければ生じなかったであろう対立が立憲政の確立により生じたのである。
 
 もちろん、こう論じるからといって、不透明なままであったほうがよいと言いたいのではない。そうではなく、帝国という場が、一定の枠にはめて整序してしまってはその息の根が止まってしまうような複雑なネットワークによって成り立っているというそもそもの構造の違いを、立憲期の歴史は示唆しているのではないだろうか。
 
 こうした点について、評者は、1905年革命以降に、やはり様々な関係性が透明化したロシア帝国においてポーランド人とユダヤ人の対立が激化したことを比較しうる例として挙げた。フロアからも、アウスグライヒ以降、議会制が定着しつつあったオーストリア・ハンガリー帝国において、同様に対立が生じていった事例が提示された。

 続いて藤波伸嘉が『ロシア・シオニズムの想像力』の書評を行なった。藤波はまず本書の構成を整理し、パレスチナに行かなかったロシアのシオニストたちとその思想的営為とが後のシオニズムの展開に対して有した意義を明らかにすると共に、20世紀初頭の多民族多宗教帝国の比較研究に際して新たな視座を提起した本書の大きな貢献を高く評価した。その上で藤波は、論点・疑問点として以下のような問題提起を行なった。

 第一点は、本書における「帝国」と「国民国家」、「帝国的秩序」と「近代秩序」との対比が、やや二項対立的に失しているのではないかという点である。第二は、後のシオニズムの「前史」としてではなく、20世紀初頭ロシア帝国におけるユダヤ政治の文脈において、ロシア・シオニズムは同時代的にどのような意義を有していたのかという問いである。本書でしばしば「運動としては行き詰まる」「表舞台ではすっかり色褪せる」などと表現されているシオニストであるが、しかし彼らの刊行物は非シオニストも含めてユダヤ人内部で最大の影響力を持っていたこと、また、1917年二月革命直後の時点ではユダヤ人内部での影響力を大きく高めたことも同時に指摘されている。そこでその背景にはどのような要因が想定されるのかと尋ねた。これに関連して更に、本書は全体の構成が極めて論理的に組んであるが、正にそれ故にシオニスト内部での見解の相違や時系列的な変化がやや見にくくなっていることを指摘した。
 第三として、本書で取り上げられるシオニスト関連の論争は極めて理論的・抽象的なものが多いが、より卑俗で現実的な政治の争点は存在しなかったのかについて質問した。

 最後に、本書ではロシア・シオニストはパレスチナに彼らがロシアで鍛え上げた多民族的な「国際規範」「想像の文脈」を持ち込んだと結論付けられているが、ではそれ以前からオスマン領パレスチナに存在した公民的な政治文化としての立憲主義的なオスマン国民論の伝統とそれとの関係はどう捉えられるべきかについての疑問を提起した。

 以上の両者の議論を経て、フロアを交えた議論に移った。フロアからは、ロシアとオスマンとが体現した帝国的秩序につき、前者は曲がりなりにも現在まで連続しているのに対し、後者はほぼ完全に断絶しており、その点が両書の内容の差にも反映しているという意見が出された。また、藤波著が政治史的、鶴見著が思想史的なアプローチを取ったことに関して、前者がマジョリティないし準マジョリティを、後者がマイノリティを対象としたことによる必然でもあるとの指摘があり、広大な帝国の諸要素にいかなる方法で接近するかという点について示唆深いものであった。

 『ロシア・シオニズムの想像力』については、第3章で論じられているシオニズムの「反本質主義」という点に関し、そうであるならばパレスチナが選択された必然性が説明できないのではないかとの疑問が呈された。それに対して鶴見は、対象としたシオニスト自身が、パレスチナである必然性について腑に落ちる議論をあまり展開していないためにあくまでも数少ない手掛かりからの推測であると断ったうえで次のように説明した。第1に、パレスチナがユダヤ人発祥の地としてユダヤ人内外で認識されていた点。第2に、大衆を動員するにあたっての便宜性。第3に、当時の地理学が、地理の人間や文化形成に果たす役割を重視していたことから推察されるように、また実際にシオニストの発言にそれに類した議論が垣間見られたように、そうした観点からパレスチナがユダヤ人に適合した地であると目されていた可能性があるという点である。

 また、1881–82年ポグロムよりも規模の大きかった1903–06年ポグロムの影響がどの程度あったのかについて質問があった。それに対し、鶴見著ではこの点は十分に展開されていないものの、もちろん大きく影響していたと応答があった。ポグロムによって、ブンドとならんでシオニストも自衛組織に参加するなど、運動が活性化した側面があったからである。

 『オスマン帝国と立憲政』については、まず、ダシュナク党はじめアルメニア人の政治勢力がオスマン立憲政で果たした役割について、政府・統一派との関係、その時系列的変化についての質問がなされた。これに対し藤波は、元来ダシュナク党は前代ハミト期には反専制の点で統一派や他の青年トルコ諸勢力と共闘しており、その共闘関係が第二次立憲政期にも継続したこと、正にそれ故に前代のアルメニア共同体指導層であるアミラ層や高位聖職者は民主自由党を結成して反統一派に回ったこと、従って第一次大戦後のアルメニア諸政党の相互関係と第二次立憲政期のそれとには相違があることを説明した。
 他方、アクチュラに代表されるようなトルコ主義的なオスマン国民論の存在と、本書で展開されたより多民族多宗教的なオスマン国民論とはどのように整合して考察すべきかについての問いが投げかけられた。これに対し藤波は、アクチュラの政治活動の少なからぬ部分がロシア帝国の枠組みの下でなされていたことを事例を挙げて説明し、その文脈で、アクチュラのトルコ主義的なオスマン国民論自体が「参入のための退出」、即ち、ロシアでの影響力向上のためのオスマンの利用と見做せるのではないかという仮説を提示した。

 更に、イスラーム主義者にとっての立憲制の意味やそのカリフ制との両立可能性をめぐる議論について、またアラブのイスラーム主義者とトルコのイスラーム主義者との間で立憲主義をめぐる思想に相違があったのか否か、そして、戦間期から20世紀後半の「イスラーム復興」に至るアラブ・イスラーム思想の展開の中で、この時期の立憲主義をめぐる議論はどのように位置づけられるのかについての討論がなされた。これについて藤波は、20世紀初頭にはイスラーム主義者の多くは、トルコ系もアラブ系も、少なくとも公的には立憲主義を承認していたこと、カリフ制と立憲制は多くの場合両立すると考えられていたこと、現代のアラブ・イスラーム主義思想は第二次立憲政期の直接の遺産ではなく、戦間期の英仏植民地体制とその後の権威主義的なポスト・コロニアルのアラブ諸国体制の政治構造への反発としての産物である側面が強いことについて議論を試みた。

執筆:鶴見太郎、藤波伸嘉