東京大学中東地域研究センター UTCMES スルタン・カブース・グローバル中東研究寄付講座

UTCMES定例研究会の実施報告

第2回「アルメニア総主教座の近代-オスマン末期における非ムスリム共同体の領分」

報告者:上野雅由樹(日本学術振興会)
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 2012年7月14日、駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム2にて、「アルメニア総主教座の近代-オスマン末期における非ムスリム共同体の領分」と題して第2回定例研究会が行なわれました。
 以下に研究会の報告を掲載します。

 オスマン帝国は、1856年の改革勅令により、ムスリムと宗教的少数者たる非ムスリムとの法制度面での不平等を是正し、平等原則に基づいた国民形成へと統合の原理を転換した。では、こうして平等原則を掲げる近代国家へと転換したオスマン帝国は、近世以来不平等原則のもとで非ムスリムの宗派共同体に許容してきた自由や自治をどのように受け継いだのだろうか。この問いに答えるべく、発表者は、非ムスリムの領分を表現するために用いられるようになった「宗教的特権」という概念と、主要な非ムスリム共同体のなかで比較的早い段階でオスマン政府による特権侵害を抗議したアルメニア人の事例に注目し、帝国末期におけるオスマン政府と宗派共同体との関係を論じた。

 はじめに発表者は、議論の前提として、1853年にオスマン政府が非ムスリムの「宗教的特権」を保障する勅令を発布した経緯と、勅令に対する非ムスリムの反応について説明した。そして、非ムスリムの諸共同体がこの勅令の発布を好意的に、また重大事項として受け止めたこと、勅令発布直後には、「宗教的特権」勅令付与の有無が、非ムスリム共同体が権利主体として公認されていたかどうかの基準として機能したことを示した。

 つぎに発表者は、アルメニア総主教座がオスマン政府による特権侵害として抗議した最初期の事例のなかから、宗教的案件以外の口上書(takrir)提出の禁止に対する抗議を取り上げた。そして、1860年代の段階ですでに「特権」や「宗教的特権」、それに由来する「宗教」といった概念が、オスマン政府の介入を免れた非ムスリム共同体の領分を表現するものとして、アルメニア人側にもオスマン政府側にも受け入れられていたことを指摘した。そのうえで、こうした概念が表現する非ムスリムの領分は明確に規定されておらず、それゆえに政府側とアルメニア人側のあいだには駆け引きや交渉の余地が残されていたこと、政府側はアルメニア人と交渉するにあたり、公式の回路たる総主教座と、非公式の回路としてのアルメニア共同体指導層(その多くはオスマン官僚でもあった)の双方を選択することができたこと、こうした政府とアルメニア人の関係を見る際には、当事者が他の宗派共同体との相対的な関係性に留意していたことに注目する必要があると論じた。

 以上の研究報告に対し、参加者から様々な指摘や質問が寄せられた。「特権」概念に関しては、それが非ムスリムに当てはめられるに至った経緯について、とりわけ、ヨーロッパ諸語からの翻訳だった可能性について指摘がなされた。これに対し、発表者は、列強側が用いた概念の翻訳として「特権」概念が非ムスリムに当てはめられた可能性が高いとの考えを述べた。また、1860年代から70年代の事例を扱った本報告に対し、それ以降の時代にもアルメニア人が特権侵害を抗議する事例が存在するのかという点に関しては、少なくとも19世紀末から20世紀初頭のアブデュルハミト2世期にはそうした事例が見られると返答した。

 発表内で取り上げた、アルメニア人はオスマン帝国の他のキリスト教徒と異なり、列強の庇護者がいないとする論説に関しては、オスマン・アルメニア人がロシア帝国の領事を頼った事例もあったのではないかとの疑問が寄せられた。これに対し発表者は、イスタンブルと地方ではアルメニア人の態度も異なり、地方のアルメニア人がロシアを頼ることに対して比較的抵抗が少なかったのに対し、イスタンブルのアルメニア人はオスマン帝国への依存度が高く、それゆえにロシアと関係を持つことに強い警戒心を示しており、上記の論説はイスタンブルのアルメニア人の態度を反映していると論じた。

 政府とアルメニア共同体の非公式の回路となったアルメニア人オスマン官僚に関しては、どういった教育を受けていたのか、どの程度のアルメニア人官僚が存在したのかといった質問があがった。これに対し、発表者は、アルメニア人官僚が宗派共同体内の学校や家庭教師、ヨーロッパ(主にフランス)留学といった形で教育を受けていたこと、他の非ムスリムと比べてアルメニア共同体は多くのオスマン官僚を輩出していたと答えた。こうした質疑から、議論はアルメニア人の事例と正教徒の事例との相違点に発展した。そして、正教徒共同体では聖職者の権威が比較的高く、共同体で指導的な地位にあった俗人は、共同体内で制度的な裏づけを得ることもなければオスマン官僚としての道を選ぶ者が少なかったのに対し、アルメニア共同体では、聖職者の権威が相対的に低く、それゆえに、共同体内で指導的な地位にあった俗人は、共同体運営方式の変革を進めることで共同体内での制度的足場を築くとともに、その多くがオスマン官界に参入したという対照的な性格が浮き彫りになり、様々な共通点を有していたとはいえ、オスマン帝国の非ムスリム諸共同体をひとしなみに扱うことの問題性に関して理解が深まった。

執筆:上野雅由樹