東京大学中東地域研究センター UTCMES スルタン・カブース・グローバル中東研究寄付講座

UTCMES定例研究会の実施報告

第7回「ハンガリーのギリシア商人:18世紀の中央ヨーロッパとオスマン帝国をめぐって」

報告者:秋山晋吾(一橋大学)
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 2013年2月16日、駒場キャンパス18号館メディアラボ2にて、第7回定例研究会が行なわれました。
 以下に研究会の報告を掲載します。

 17世紀末、オスマン、ハプスブルク両勢力の地政学的関係は反転し、150年あまりに及んだハンガリー中央部のオスマン支配は終わった。しかし、それに続く18世紀初頭から、ハンガリーにおける遠隔地商業および地域商業の担い手として急速にその人数と影響力を増加させていったのは、オスマン帝国臣民の商人(ギリシア商人)だった。彼らは19世紀初頭までの100年あまりの間、ハンガリーの商業の主役であった。本報告では、これらの商人の活動とその背景を概観した。

 報告は3部構成で行った。1)ハンガリー国制の身分的編成とギリシア商人の位置づけ、2)ハプスブルク・ハンガリーとオスマン帝国間の外交・通商とギリシア商人の活動、3)カテゴリー・アイデンティティの枠組み変容。

 17-18世紀のハンガリー社会を特徴づけるものとして、国外からの外来集団の大量到来という現象が挙げられる。これは、16世紀のハンガリー三分割(オスマン帝国の北進、ハプスブルク家によるハンガリー王位継承、トランシルヴァニア独立)、宗教改革(ハンガリー西部を除く三分割全域でのプロテスタント化)、17世紀末からのハプスブルク支配の確立(オスマン帝国の後退、再カトリック化)という要因に基づくものだった。西方からは、30年戦争序盤でのチェコ新教派の瓦解に伴いトランシルヴァニアに移住してきたドイツ・モラヴィアの再洗礼派住民、南方からは17世紀末に対オスマン戦争からの難民としてハンガリーに大規模流入したラーツ(セルビア)人、同じ原因で移住してきたが数的には少ないブルガリア人、北方からは、17世紀末にモルドヴァからトランシルヴァニアに移住してきたアルメニア人など、ハンガリー国王あるいはトランシルヴァニア侯から特権を付与されて国内に定住していった外来集団は、その特権の内容は多様ではあったが、特権に基づいて編成されるハンガリー国制・社会のなかに組み込まれていった。また、18世紀前期・中期にドイツや北部ハンガリーから南部の旧オスマン支配地域に入植していったドイツ(シュヴァーベン)人農民、スロヴァキア人農民は、特権集団としてではなく、自由農民としてあるいは農奴として、この時期急速に(再)確立されようとしていた領主支配体制に組み込まれていった。これらの外来集団は、上記の要因によって移動を誘発されたうえで、ハンガリーにこの時期成立していた(いった)身分制国家・社会の枠組みに適合することで(適合する形で)定住した。しかし、ギリシア商人と呼ばれる商人集団は、ハンガリーに数十年単位で居住する人々であったが、オスマン帝国臣民としてハンガリー国内で活動するという点で、上記の諸集団とは異なる性格をもった。すなわち、ギリシア商人は特権によって規定される集団ではなく、オスマン帝国臣民という(そして二次的に正教徒であるという)属性によって差異化される集団だった。また、複数の言語、出身地を包摂しているという意味で、なんらかのエトノスを排他的に名指すものでもなかった。

 このようなギリシア商人の集団規定上の特殊性は、彼らのハンガリーへの進出を本格的に促進したのがハプスブルク君主国(ハンガリーも含む)とオスマン帝国間の通商協定という国家間の合意だったことに起因する。17世紀末以降、バルカン半島内陸部の在地商人層が地元の地域経済の枠を越えて遠隔地まで交易の担い手として進出していったことは、研究史上すでに指摘されている。また、オスマン帝国撤退後のハンガリーがその市場能力に相当する在地商人層を有しておらず、また農産物、鉱物等の原料以外に輸出品を持たなかったために、外国商人の進出の格好の舞台であったことは確かである。しかし、18世紀のハンガリー市場を牛耳ったのが、例えばドイツの商人でも、君主国内のオーストリア商人でもなく、オスマン帝国臣民としてのギリシア商人となったのには、1718年のパッサロヴィツ条約附帯通商協定が決定的な役割を担った。この協定で、両国(ハプスブルク君主の諸領邦・諸国とオスマン帝国)は、相互に相手の臣民に対する関税を優遇税率とするとともに、領域内への越境時に一度のみ徴収するということを取り決めた。ハプスブルク優位の戦況の中で結ばれたこの条約・協定は、ハプスブルク側にとってはオーストリア産品のオスマン帝国内での市場獲得を目指したものであったが、その目論見は早々に破綻した(協定翌年の1719年にトリエステを開港し、東方会社を設立するが、この会社は瞬く間に経営に行き詰った)。ハプスブルク君主国の重商主義政策の核である世襲領(オーストリア・チェコ)の工業製品のオーストリア商人による輸出は、オスマン市場においては西欧諸国との競争に敗北することで潰えたが、ハンガリー市場においては別の原因で失敗した。パッサロヴィツ通商協定の規定により、ハプスブルク君主国内の「内国」関税(たとえば、トランシルヴァニアとハンガリー、ハンガリーと世襲領など君主国内の国家間で課せられる関税。その意味で「内国」ではない。)がオスマン臣民には免除されたことで、ハンガリー市場においても、ギリシア商人は他の外国商人(オーストリア商人含む)に対して優位に立ったのである。そのため、ギリシア商人はオスマン臣民としての属性を容易に手放さず、ハプスブルク・ハンガリー王国としても彼らを臣民化して国制に取り込んでいくことは、1770年代に露土戦争を経るまで本格的に着手することができなかったのである。その意味で、18世紀のハンガリーにおけるギリシア商人の隆盛は、経済的な要因だけでなく、ハプスブルク君主国の複合国家としての性格(条約が君主間で結ばれるのに対し、「国内」は関税ラインで分かたれた複数の国家からなる)にも由来したのである。

 本報告では、以上のようにハンガリーにおけるギリシア商人の基本的位置づけを確認したうえで、彼らの出身地、取り扱う商品、商人層全体の中での比率、居住地分布、ハプスブルク・ハンガリー当局の対応、在地との関係を概観した。また最後に、ハプスブルク当局によって1770年代以降、ギリシア商人のハンガリーへの定住化、ハンガリー臣民化が進められたことに伴い、それまでオスマン臣民として差異化され、商業上の優位を確保していたギリシア商人が、その差異化指標を喪失することでハンガリー社会に吸収されていったと同時に、その内部でも宗教・言語を軸に新たな差異化のプロセスが開始されていったことを確認した。

(執筆:秋山晋吾)

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